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【シャンパーニュの歴史ミニ講座】

シャンパーニュの豆知識 シャンパーニュの歴史

シャンパーニュの歴史を知ればもっとシャンパーニュが楽しくなる!

そこで、さくっと学べるミニ講座をご用意いたしました。

読みやすい、わかりやすいをモットーに自分なりにまとめてみました。

シャンパーニュが特別な飲み物だと言われる理由の一片でも伝われば嬉しいです。









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   シャンパーニュにまつわる基礎知識をご紹介しています。


シャンパーニュはローマだった!?

シャンパーニュの歴史 ローマ

シャンパーニュでは、約6,000年前のものと見られる岩石からブドウの葉の化石が発見されていますが、ワインはギリシャ人に、本格的なブドウ栽培はローマ人によってもたらされました。

古代ローマ時代、フランスは「ガリア」と呼ばれるローマの属州で、ケルト系のガリア人が住んでいました。紀元前58年に始まったローマの将軍ユリウス・カエサルが行った軍事遠征「ガリア戦役」によりローマの支配権がガリア全域に広がりました。こうしてフランス全土でブドウ栽培、ワイン造りが本格的に始まってゆきました。

だから、「シャンパーニュ」がローマ語の「Champagne(カンパーニュ)=平原」からきているわけなのです。ローマ時代の名残のようです。

紀元前79年にヴェスヴィオ火山が噴火し、ローマにおけるワインの中心地ポンペイが壊滅してしまいました。ローマではワイン不足に陥り、ローマ近郊の穀物畑が次々とブドウ畑になってしまい、今度は麦不足を招いてしまいます。

そこで、紀元前92年。ローマ皇帝ドミティアヌス帝はブドウ栽培を規制する勅令を発し、イタリアに新たなブドウ園を作ることを禁じ、属州にはブドウ畑の少なくとも半分はブドウ樹を引き抜くよう命じました。ワインの過剰生産と穀物不足の解消が狙いでした。

この勅令は280年、時のローマ皇帝プロブス帝により完全に廃止されるまで続いていました(実際には、ずっとワイン造りは続いていたのですが)。こうしてガリア全域でブドウ栽培が認められました。

ローマ時代、シャンパーニュの白亜の大地は格好の石灰岩の採掘地でした。それらの採掘跡の白亜の洞窟は、今なお貴重なシャンパーニュセラーとして活躍しています。








シャンパーニュの豆知識 シャンパーニュの歴史


シャンパーニュにまつわる基礎知識をご紹介しています。


シャンパーニュは聖なるワイン!?


ローマ帝国が滅亡の危機にあった頃、ローマの属州であった当時のフランス「ガリア」には、ゲルマンの一部族だったフランク族を統一したメロヴィング家のクロヴィスがローマ軍を駆逐し、ランスを中心とするガリアの王であると宣言し、フランク王国を建国しました。

クロヴィスは496年、クリスマスの日にランスの大司教聖レミより洗礼を受け、シャンパーニュの地で戴冠しました。8世紀半ばには、カロリング家に王権が移り、768年に即位したカール大帝の時代には、現在のフランス、ベネルクス、スイス、オーストリア、スロヴェニエの全土とドイツ、スペイン、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの一部まで領土を拡大、最盛期を迎えます。カール大帝の没後、フランク王国は3つに分割され、そのうち西フランク王国は、現在のフランスの元になりました。987年にパリ伯ユーグ・カペーが国王に選ばれ、カペー朝が成立しました。

クロヴィスの洗礼から300年後、ランスの大司教が「クロヴィスは一羽のハトがくわえてきた天からもたらされた小瓶に入った聖油によって聖別され、その聖なる液体はランスにある」と宣言したことを受け、その後19世紀半ばまで歴代のフランス王を聖別し、戴冠式を執り行う役割をランス大司教が担うことになります。こうして戴冠式の祝宴で振舞われるシャンパーニュのワインが国境を越えて名声を築いてゆくこととなります。

クロヴィスの時代からシャンパーニュのワインは洗礼につき物です。この洗礼には「初めての経験」という意味もあり、何かを初めて行うときに飲むのはシャンパーニュ、というのが通例になったといいます。

そう!だから進水式で船体を清めるため船首で投げ割るのがシャンパーニュなのです。
コンコルドの初飛行や英仏海峡トンネルの開通も、フランス人で初となるエベレスト登頂を成し遂げた登山家や数々の冒険家たちもシャンパーニュでその成功を祝ったのです。

こうして特別な機会を祝うワインとしても定着していきます。モータースポーツやヨットレースの入賞者が勝利を祝うのもシャンパーニュですよね。表彰台の上でシャンパーニュをふきださせている「シャンパンファイト」です。

シャンパーニュが「ハレの日」の飲み物だというイメージはこうして出来上がっていきました。








シャンパーニュの豆知識 シャンパーニュの歴史


シャンパーニュにまつわる基礎知識をご紹介しています。


シャンパーニュ地方のワインは昔から発泡していた!?

シャンパーニュの歴史 3

シャンパーニュ地方といえば、フランスの中でも北に位置する地域です。必然的に冷涼な気候により非発泡性のワインを生産するには厳しい環境です。

とはいえ、歴史的にはイギリスやフランスの王侯貴族たちに愛された赤ワインの産地でもあったこともあります。たとえば、13世紀初頭フィリップ・オーギュスト王はオーヴィレールのワインを飲みながら英気を養い、テューダー朝のヘンリー8世はアイのワインをこよなく愛し、17世紀のルイ14世はブジーのワイン以外ほとんど飲まなかったといいます。

これらは全て発泡しないワインであっただけでなく、色は赤だったと考えられていますが、実際にはピンクがかった色で、ピノ・ノワールの先祖にあたる品種であったとされています。

ドン・ペリニヨンがシャンパーニュを発明した(実際にはイギリス人が発明したのですが)とされる以前からシャンパーニュ地方のワインは穏やかな泡を有していました。冷涼な気候のもとではブドウの摘果は晩秋まで待たなければならず、その結果、果皮についている酵母が発酵の段階で十分に果汁に含まれている糖をアルコールに分解する時間を与えられないまま冬に突入してしまうことにありました。冬の寒さで酵母の働きが止まってしまうのです。
そうして春になると酵母が再び発酵を始めることで炭酸ガスが発生していました。
そう「瓶内二次発酵」です。

つまり、シャンパーニュの泡は革命的な発明なわけではなく200年近くかけて改良を続けてきたことで生み出された技術の結晶なのです。

18世紀になるとそれまで忌むべき酒とされていたシャンパーニュは一躍流行の最先端に踊り出ます。1728年にルイ15世がシャンパーニュの輸送と容器に関する新法令を布告します。それまで、スパークリングワインの流通のネックだった瓶輸送の禁止が解かれたのです。
さらに、イギリスやロシアなど販路を海外へと広げることでさらに拡大していきます。

もし、この時代に温暖化が進んでいたらシャンパーニュの製法は確立されていなかったのかもしれませんね。


ドン・ペリニヨンは盲目でもシャンパーニュの発明もしていない!?

シャンパーニュの歴史 ドン・ペリニヨン

日本で一番有名なシャンパーニュといえば「ドンペリ」ですね。日本のナイトマーケットシーンにおいて、これほど消費されたシャンパーニュは他に類を見ないのではないでしょうか。

そんな「ドンペリ」は「シャンパーニュを発明した盲目の僧ドン・ペリニヨン」の名を冠したシャンパーニュと言われてきました。しかし、近年、そのドン・ペリニヨンさんが盲目でもなければ、シャンパーニュを発明した人物でもないことがわかってきました。

諸説あるのですが、盲目というのは「ブラインドテイスティング」をしていただけではないか?というのです。さらに、シャンパーニュを発明したのはイギリス人であることがわかっています。

とはいえ、ドン・ペリニヨンさん、「シャンパーニュの父」であることは変わりないのです。

当時泡というのはとても厄介なもので、抑制したかったのです。どうしたら泡を抑えることができるのかその方法を探っていました。そうして様々な検証の結果、今日まで受け継がれるシャンパーニュ造りの基礎となる方法を見つけ出しました。

・「コカール・プレス」と呼ばれる黒ブドウ品種から透明な発泡しない白ワインを抽出する方法を発明したこと

・いつくかの畑からワインをブレンドした方がバランスが取れたワインができることを発見したこと

・炭酸ガスの圧力に耐えられる強度があるイギリス・ガラスでできた瓶を使用したこと

・効果的な瓶の栓としてのコルクを再導入したこと

これらが彼の功績だといわれています。
とにもかくにもシャンパーニュの品質向上に大きく貢献したことには変わりないのであります。

こんにちの私たちがシャンパーニュを心ゆくまで愉しめるという恩恵にあずかれるのも彼のおかげなのです。

宮廷がシャンパーニュの繁栄を支えた!?

ポンパドール

スパークリングのシャンパーニュが生まれたのは、ランス大司教の宣言から900年もの歳月を要しました。ドン・ペリニヨンによってシャンパーニュの製法の基礎が確立されたものの、不安定な仕上がりで、一般的には長らくワインが泡立つことは忌むべきものとされていました。
ただし、退廃的なヴェルサイユを除けば、です。

1589年、ブルボン家のアンリ4世がフランス国王に即位しブルボン朝が成立。アンリ4世の子、ルイ13世の治世を経て、孫のルイ14世の時代にブルボン朝は全盛期を迎え、絶対王政が確立されます。

18世紀のフランス宮廷のシャンパーニュへの沈溺ぶりは伝説となっています。特に、1715年から1723年まで摂政を務めたオルレアン公フィリップ2世は、政治家としては有能であったとも言われていますが、プライベートでは、享楽的で、ほぼシャンパーニュに酔って過ごしていたといわれています。

パリの郊外にあった「パレ・ロワイヤル」で夜ごとサロンを開き享楽に興じていました。コルク栓を飛ばす「ソート・ブション」を愉しんだり、愛人をはべらしたり...。
彼の母親が1716年にしたためたという手紙には「息子がシャンパーニュのワインばかり飲んでいる」という小言が書かれていたそうです。

この時代のシャンパーニュは、現在よりも甘口で、ドサージュの量が多かったこともあり、瓶内で再発酵が進み、貯蔵庫内で破裂してしまうこともしばしば。ほとんどガスがなかったこともあったりと、まだまだ不安定な状態だったといいます。それにもかかわらず、王侯貴族たちはこぞってシャンパーニュの魅力に取りつかれていました。

さらなるシャンパーニュの発展に大いに貢献したのも国王でした。
1728年、ルイ15世によりそれまでの流通のネックだった瓶での輸送の禁止が解かれたことで隆盛に弾みがつきます。
さらに、1735年にはシャンパーニュの瓶の規格、容積についての規則を制定。同時にコルクが飛ばないよう麻紐で固定しなければならないと布告します。これは、「フィスラージュ」と呼ばれる技法です。現在、いつくかの生産者が復活させているので目にしたことがある方も多いかと思います。

現在まで続く名立たる老舗メゾンが登場したのもこの頃です。最古のシャンパンハウス「ルイナール」に続き、「テタンジェ」「モエ・エ・シャンドン」「ランソン」「ドゥラモット」「ヴーヴ・クリコ」「ルイ・ロデレール」「パイパー・エドシック」などが挙げられます。

ルイ15世の寵妃ポンパドール夫人は、こよやくシャンパーニュを愛したことでも知られています。彼女は「飲んでなお女性を美しく見せてくれるのはシャンパーニュだけ」という名言を残しています。毎年5月、モエ・エ・シャンドンに200本ものシャンパーニュをオーダーしていたという記録が残っているほどでした。

この当時、シャンパーニュを飲んでいたグラスは「クープグラス」です。シャンパンタワーで使われる口が広がった浅いグラスです。このグラスは、とある高貴な女性の胸をかたどったといわれています。それはポンパドール夫人からマリー・アントワネットまで諸説あるそうですが。

また、ゲップが出ないようかき混ぜて泡を飛ばしてから飲んでいたといわれています。どこまでも女性を美しく見せてくれる飲み物だったのでしょう。黄金色の泡立つワインが最も光り輝いた時代だったのかもしれません。








シャンパーニュの豆知識 シャンパーニュの歴史


シャンパーニュにまつわる基礎知識をご紹介しています。


ナポレオンはシャンパーニュ好き!?

シャンパーニュの歴史 ナポレオン

フランス革命により王侯貴族という庇護者を失ったシャンパーニュの飲み手は、今度は革命家たちへと変遷します。さらに、ナポレオンの登場がその危機を救うことになります。

「戦に勝った時こそ飲む価値があり、負けた時には飲む必要がある」という言葉を残しているほどの愛好家でもありました。戦地に赴くたびに大量のボトルを必要としたので、シャンパンハウスは軍属として遠征先に赴き、兵士たちの喉を潤したといいます。

特に、モエ・エ・シャンドンの3代目ジャン・レミー・モエとは将校時代からの旧友であったことから、戦地へ赴く際にモエ家に立ち寄り、シャンパーニュで勝利を誓ったといいます。ナポレオンの勢力拡大と共にヨーロッパ中に「モエ・エ・シャンドン」の名を広めることに成功しました。

また、ナポレオンは「ジャクソン」も愛飲しました。自身の結婚式で振る舞ったという逸話もあります。その最高の栄誉を賞し「メダイユ・ドール(金メダル)」を授けました。今日もメゾンの紋章としてナポレオンのシンボルである鷹や王冠とともに掲げられています。

1815年「ワーテルローの戦い」での大敗の際、軍事拠点となっていたシャンパーニュ地方は、ロシア軍を代表とする連合軍に占拠されてしまいます。ナポレオンが皇帝の座を降りた後は、戦後補償の一環でシャンパーニュは搾取の対象となり、モエは60万本ものシャンパーニュを奪われてしまいます。

しかし、彼はこれを好機と捉えます。
「彼らはシャンパーニュの虜となり、国に帰り最高のセールスマンになってくれるだろう。」と語ったといいます。
また、ウィーン会議の際の晩餐会で繰り広げられたフランスによる美食外交により、シャンパーニュは一気にヨーロッパ中に広まります。

モエの確信は読み通りとなり、ロシア皇帝アレクサンドル1世をはじめ、英ウェリントン公、プロイセン王ヴィルヘルム3世、オランダ国王2世、神聖ローマ帝国フランツ2世などがすぐに顧客として名を連ねることになりました。

ヴーヴ・クリコのマダムクリコは、ロシア将校にありったけのシャンパーニュを差し出し、飲ませました。そうしてロシア軍が撤退した時、船に積めるだけシャンパーニュを積み込んで先回りし、新規開拓に成功します。ロシアでは「クリコスコエ」と呼ばれ人気を博しました。

こうしてシャンパーニュは、1800年には30万本だった年間生産量が1850年には2000万本にまで膨れ上がります。そうして新たなシャンパンハウスが続々と設立されていったのです。


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